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八幡平温泉郷2018年06月23日

ここの分譲地は松川地熱発電所から温泉を引湯管で配給している
安比高原から少し離れて、八幡平温泉郷について調査を行ってみた。
八幡平温泉郷の歴史は安比高原よりも古く、昭和40年代には当時の松尾村が出資する第三セクターによって温泉地の分譲が始まった。
八幡平市は平成29年度の予算で約10億円の予算を計上し、温泉給湯のため引湯管の敷設替えを行うことにした。
1、八幡平温泉開発株式会社(以下三セクという)は、平成28年03月現在、八幡平市が約92%の株式を有する第三セクターである。この会社の事業は土地分譲、温泉配給を主とする。この会社は平成17年の市町村合併(西根町、松尾村、安代町)以前から松尾村を主とする株主構成から存在する第三セクターである。合併後、3町村の第三セクターも合併し、八幡平市産業振興株式会社となったが平成28年3月1日会社分社によって現在の会社形態となった。
(三セクの役員構成)
2、三セクの役員構成は平成28年3月現在、代表取締役社長田村正彦(八幡平市長)、専務取締役岡田久(八幡平市副市長)が市から派遣されている。
(温水ハウス整備事業)
3、昭和55年当時の松尾村(現在の八幡平市)は、新農業構造改善事業近代化施設(以下温水ハウスという)の造成によって、温水ハウスまでの引湯管の整備を三セク(当時の八幡平温泉開発)と共同して行うこととした。この事業は、昭和55年度に資源総合開発型の新農業構造改善事業の地区指定を受け、松川温泉から温水ハウスまでの引湯管(パイプライン)を昭和56年度と57年度の合体施工とした。総事業費503,930千円のうち246,787千円が村の負担となり、村の共有財産持分割合は0,48972となった。

安比高原の観光開発と自治体の苦悩2016年09月16日

不動の滝
安比高原の観光開発と自治体の苦悩
 昭和45年に発令された森林レク事業の構想により、林野庁は全国の国有林を対象に適地の選定を開始した。安代町を管轄する青森営林局では昭和46~47年にかけて八幡平地域の適地選定調査を行い、安代町議会は昭和47年3月に森林レク事業構想の報告があった。
 その後、この構想には国鉄、丸紅商事、日本交通公社が参入を希望していることが明らかになるとともに、全国10箇所の事業候補地の1つとして八幡平地域が選ばれた。この構想が明らかになることによって、安代町では開発計画がにわかに町議会の議論の中心となり、開発の機運は高まっていった。
 しかし、その後の5年間は具体的な計画の進展はなかった。議会より「(開発は)声ばかりで遅々として進まない」と指摘を受けた町長は、「総需要抑制政策のあおりを受けて予算請求が困難である」と報告している。その背景には、林野庁の財政赤字、政府の財源不足があったことは周知の通りである。
 地元自治体では民間資本の導入を期待していたことは伺えるが、事業(地域開発)をどのような組織体制で行うのかは検討されなかったのではないか。
 外部資本の受け入れについては過疎地域の貧しい財政事情から、開発を外部の資本の導入にすがるしかないことは容易に理解できよう。安代町の産業政策は林野庁の国有林経営の失敗により林業が衰退するに伴い。観光業に生き残りをかけて進路を見出すより他手立てがなかったのである。
 しかし、東北縦貫自動車道の開通までこの地域は資本経済のメカニズムに取り残され、それまでの企業の観光開発計画は構想の段階に止まり具体化を見るにいたらなかった。
 したがって、昭和50年に実施した町道整備(総延長6,128㎞、幅員8m、工事費3億3,600万円)の事業も「今年の事業として何も手をつけるものがない状況下で、折角国の予算がついたので(国の)補助を返上するわけには行かないので(道路整備を)やる」(安代町議事録、昭和50年9月16日)という補助金頼みの開発であった。
 とは言え、計画はここで始めて「森林レク」事業として正式にスタートをした。昭和51年2月には青森営林局、岩手県、安代町、盛岡鉄道管理局から委員が出て、「管理運営協議会」を発足させた。この間、町議会において外部資本の導入による観光開発の利益と自治体の公共性のマッチを期待して、多くの時間を割いて第三セクターについて議論している。それらの議論は、①第三セクターに含まれるものは何か、②また第三セクターの性格とは何であるか、③そして第三セクターを管理する管理運営協議会の性格とは何か、といった問題に整理される。
 これ等の問題は、第三セクターの設立を検討するに当たり、全国に先駆けた地域開発の事例として貴重であり、別の説で検証することにする。

安比高原の境界を巡る紛争2016年09月16日

安比高原牧場の風景今も牧野は残っているがその昔はスキー場までの広大な牧野であった
安比高原の境界を巡る紛争
 安比高原は旧松尾村と旧安代町の境界に位置する。この境界を巡る争いに興味深い記述がある。
 松尾村は昔から山深い里である。それだけにすべてに穏やかな良き時代の村里がそのまま続いてきたとされる(「松尾村誌」平成1年9月326頁)。
 前森山は標高1305mの連邦山であり、その北斜面地域は安代町と松尾村の境界線上に位置する。対象とする地域は年間平均気温6℃と冷涼な上積雪も多い。当該地域の土地の変容は酪農の基盤たる栽培牧野として安定的な松尾村と、農業基盤を失い急速な変容をした安代町とは好対照である。
 この地域の境界線を巡る争いは南部藩政のころから延々と絶えなかったといわれる(この地域は昭和31年の合併によって安代町になるまで旧荒沢村に属していた)。松尾村と荒沢村の村界を巡る争いは、同時に岩手県陸中国岩手郡と青森県下陸奥国二戸郡との境界争いであった(中島信博「林野利用の変容とスキー場開発(安比高原スキー場を事例として)」『東北大学教養学部紀要』第49号1988年12月)。明治初期に岩手、青森両県の分割の際に解決を図ろうとしたが果たせなかったようである。
 その後明治14年に内務省官使井坂右三が現地踏査を行い、松尾村と荒沢村の境界を巡る協議は再三繰り返し行われた。その結果、ようやく合意に達したことからそれぞれの代表者が連署して協定は一旦は成立した。
 しかし、松尾村の主張によれば、その後明治26年にこの地域に御料牧場が設置された時に荒沢村の一方的な立会いの下で境界の二重土塁が築かれ、これを不服として松尾村は御料局や岩手県に抗議したが結論を得ず、国家永年の支配により紛争は棚上げされた。
 「明治維新以降、皇室財産設定の動きが始まっていたが、それが本格化したのが宮内省に御料局の設置をみる明示18年ころといわれる。細野いったいが御料牧場に繰り入れられたのもこうした皇室財産設置の政策によるものと思われる」(中島信博、前掲書)。
 しかし、まもなく起こった日清戦争(明治27年~28年)を契機に政府は馬政振興を課題として、明治33年にこの地域は農林省種馬育成所用地「岩手種馬所」に変更になった。
 終戦を迎えて「岩手種馬所」が廃止されるまで「国有の牧野時代は明治中期から第2次大戦終了時まで継続されることになる」。この間、地域住民による当該土地利用は排除され、馬の避暑地として国家による利用がなされた。住民は牧野の保全作業が手間取りとして与えられ」それなりに安定していたと思われる。また、そのことが両村の境界解決に影響したことが考えられる。
 戦後GHQによって軍事機構と内務省が解体され、明治以降の天皇制国家機構に大きな衝撃が与えられた。当該跡地は開拓地に解放された。開拓に不適な土地は牧野として払い下げることになった。牧野払い下げに対してはもともとこの地域は国有地であったし、これまで住民にはあまり関心がなく、もう一つ盛り上がりに欠いたことが伺える。
 松尾村資料によれば、藤根順衛村長の時代になって「今、この問題を解決しなければ永久に悔いを残す」と判断して、荒沢村と折衝を繰り返し、積極的な姿勢を見せた。しかし、意見の一致をみないまま両村の共有という形で「持分は2分の一とする」協定により、売渡が行われた。
 これによって牧野の売り渡しについては昭和27年に一応の決着がついた。しかし、村境については昭和39年に岩手県地方課長駒ヶ嶺四郎がこの問題に積極的に乗り出して、岩手県の調停が行われるまで10年を費やした。
 昭和40年に交付された岩手県知事の決定書には次の内容が記されている。
(四〇地第六三八号)
地方自治法(昭和22年法㈹7号)
第9条の2第2項の規定により二戸郡安代町及び岩手郡松尾村の境界に関する決定所を(略)交付する。
決定の理由
両町村の境界を判明できないままにしておくことは行政の執行上において支障をきたすおそれがあるので、この際この境界を決定するものである。
昭和40年8月6日
(資料出所「松尾村村誌」前掲書)
  その後の観光開発には土地の所有形態がしばしば問題となる。民間資本の導入はこの土地所有の権利が資本の論理によって経済価値を高める役割を果たす一方、地域住民の合意形成には留意しなければならない。

第三セクターの事件簿2016年09月14日

破綻した第三セクターが再生された
川崎市の第三セクター「かわさき港コンテナターミナル株式会社」(KCT)に対する損失補償契約に関する、横浜地裁の平成18年11月15日の判決は初めて「損失補償契約を違法」とした(横浜地判平成18年11月15日・金融法務1793号39頁・金融判例1258号50頁・判例タイムズ1239号177頁)。
 第三セクターの金融機関に対する借り入れに対し、出資団体である地方公共団体がその債務契約につき損失補償をすることがある。この債務保証の性質が財政援助制限法3条の地方公共団体が行う債務保証の禁止事項に反するかがしばしば問題となる。
 この判決では、原告側市民オンブズマンの市長に対する損害賠償及び川崎市が掛かる金融機関に対し不当利得の故返還要求をすることは棄却し、原告側敗訴が言い渡された。
 しかしながら、「損失補償は売上金の一部に対する損失(金融機関の場合は利息のほか元本も含む)であり、連帯保証のそれとは区別される。しかし、その内容は債務保証に近く、同様の機能・実質を有する」と一部原告側主張を認めた。原告側訴えは棄却、被告側は勝訴(結果的には一部原告側の主張を認める)判決であるがため控訴できず。
 筆者が注目するこの判示に「財政援助制限法は、占領軍総司令部の意向を反映したものであり、その制定された背景に戦前の国策会社の活動を停止させ、その復活の防止を図る意図があった」ことを指摘している。
 これは、第三セクターの援助制度は古く、大日本帝国の時代から国策による企業支援制度があったことを判示している。
 現在地方公共団体が抱える債務補償の額は2兆円を上回るとされているが、第三セクターの設立には多くの財政支援が盛り込まれ、民間企業の参入を後押ししている。財政余力の乏しい地方の自治体では大資本の参入は効果的である反面、自治体の出資には限度があり、債務保証を求められているのが現状である。
 この背景には、80年代の民活法やリゾート法による財政支援立法が制定され、官による規制の緩和が推し進められた。その結果、官と民の癒着が容易となり、陰日なたと企業支援が際限なく行われた。政府の誘導により第三セクターが増加することは、地方自治体の観点からも決して楽観できるものではなく、住民保護の観点からも債務保証に類似した損失補償の規制は図られるべきである。
 財政援助制限法の趣旨は、わが国の公私混合企業の源流から受け継がれる流れを断ち切ることにあり、その本旨を今一度捕らえよ、とこの判決は示したこととして注目する。

山村経済の再編と第三セクター2016年09月14日

安比高原カムイの森 Owner
 主要なテーマは、大手資本の参入が地域振興の核となり、自治体の期待する公共性にマッチした事業の運営が図られているのかを検証することにある。
80年代の第三セクターを政府の支援措置とその時代の特徴について述べた。
 この章では、岩手県の旧安代町と旧松尾村(現在は合併により西根町を含んだ八幡平市)の境界線上に位置する安比地域を対象として開発までの歴史的経緯を述べ、第三セクター方式による開発について1997年当時の評価が行われている。     
 参考文献には戦前の資料が乏しく2次資料(主な資料として次の文献を引用した、工藤次男編集『安代町との境界紛争』「平成1年9月326頁、中島信博『林野利用の変容とスキー場開発 安比高原スキー場を事例として』「東北大学教養学部紀要」第49号1988年12月」を参考とした。
1、第三セクターど導入の意思決定と経緯
 林野庁は観光開発事業の一環として、昭和45年に森林レクレーションエリア整備事業の適地選定調査を行い昭和50年に新たに「総合森林レクレーションエリア整備事業」(以下森林レクという)を実施することとし、森林レク実施要綱を定めた。これは調査の結果、事業の候補地が全国で10ケ所に絞られ事業主体が第三セクター方式の導入によることを明確にしたものであった。
 これによって昭和45年に発令された森林レクレーション事業の構想は通達の改正が行われた。
 森林レクの事業内容は次の通りであった。「この事業は、営林局、営林支局、地方公共団体、地方公共団体が出資している株式会社が共同して、………総合森林レクレーションエリアにおいて、スポーツ、見物、見学、休養等の各種の健全な森林レクレーション利用が図られるよう各種の森林レクレーション施設の総合的な配備、運営等を行うものとする」(昭和50年2月27日49林野管338号)。
 この森林レク計画が示すように安比高原の開発の本来の目的は、国有林の有効活用を主眼に置いた管主導の開発であった。
 山村の地域開発には自治体の財政難から民間資本の導入が欠かせないのであるが、その地域に民間資本を呼び込むためには国の政策と補助金に頼らざるを得ないのが現状である。
また、民間資本の導入が容易になされるためにはその地域の経済的背景、特に土地の所有形態が明らかにされ、その土地利用にかかる形態の変容に自治体と住民のある程度の合意がなされなければならない。